無力(下)

それは連休明けの早朝に起こった。
朝7時前だったろうか。
外から聞こえる「助けて〜」の声と「ピー」という警報音で飛び起きた。声は聞き覚えのある声。そう、二つ隣りの部屋に住むお婆さんの声だ。ベランダに出て覗くとお婆さんはベランダで「誰か助けてぇ〜」と叫んでいるではないか。しかも叫んでいる内容は僕が聞いた内容と一緒だった。
やれ上の階がうるさいだの(ハッキリと○○○号室とご丁寧に部屋番号を叫んでいた)
隣の外人が怖いだの、管理会社は何もしてくれない、お爺さんが事業に失敗しただの、やがては「ここの住民は怖い」となり「なぜ私だけこんな目に合わなければいけないの!」と叫んでいた。
だがこの日の内容は最後が違っていた。
それは「部屋の中に爆弾を仕掛けられた」だった。
目の前に建つマンションの住民も「何事か!」と覗き込んでいた。が、この「爆弾が仕掛けられた」で誰も相手にしない。

 僕はベランダで瞬時に思った「とうとう狂った」と。
お爺さんの心配が的中したのだ。お婆さんはお爺さんが仕事に出かけた後、とうとう・・・。
この時、自分でどうして良いか分からなかった。
むしろこっちが狂いそうになり怖くなった。
先日、部屋にまで行って話を聞いた僕。
励まして帰ってきた僕。
心配して「仕事を辞める」と言ったお爺さんに「やめちゃダメ」と言ったしまった自分を責めた。
責めた。
責めた。
しかし、、、僕は何もすることが出来なかった。
自分の無力さに自分を責めた。
僕は耳を塞ぐことにして現実から逃げることにした。
部屋の中に戻りベッドに潜り込んだ。
どうすることも出来なかったのだ。
そのうちに収まって部屋に入ると思ったのだが違った。
やがて誰かが警察に連絡をしたようだ。お巡りが二人やってきた。
 台風が迫る朝。外は雨が降っている。
お巡りはお婆さんの話をしばらく聞いていたみたいだ。
途切れ途切れで「部屋の中に入って!」とお巡りの声が聞こえてきた。が、お婆さんは「爆弾が怖い」と部屋に入らない。やがていつまでも気が狂ったお婆さんの話を聞くほど暇ではないようだ。「僕らも雨に濡れるから」ととんでもないことを言って帰ってしまった。
「行かないで〜あんたらが帰ったらどうなるの!」と呼び止めるお婆さんを尻目にだ。


その後もお婆さんは叫び続けた。
目の前の道路を歩く通勤する社会人に。
ゴミ出しでマンションを出入りする住民たちに。
お婆さんの住む部屋の下はマンションの入口になっていたから、ベランダから下を覗き込めば住民の出入りが分かる。
その人たちに向かって叫び続けたいた。
が、誰一人相手にしなかった。
「お爺さん早く帰ってきて〜」と虚しくお婆さんは叫び続けていた。
その時、僕は自責の念に駆られていた。
自分の無力さに自分を責め、人としてどうか?と葛藤をしていた。
2時間ほど経ったであろうか。それでもお婆さんは叫び続けていたのだ。これ以上、お婆さんを惨めにさせるわけにはいかなかった。
僕はお爺さんの連絡先を聞くためにメモ帳とペンを握りしめ、外に出てベランダにいるお婆さんを見上げた。そして声をかけたのだ!
ところが僕の顔を見おろしたお婆さんは「あんた誰?」だった。そして「あんたが爆弾を仕掛けたのかね!」と言ってきたから、、、ショックをうけ「なんで俺が爆弾を仕掛けるんだ!」と若干の怒りが込み上げてきた。


マンションには管理会社から派遣されて掃除をしにくる人がいる。ロビーや通路、階段などの掃き掃除に、草むしりなどを定期的にしてくれるのだ。
ご年輩の男性なのだが、、、挨拶だけはするので顔は知っていた。丁度その男性がロビーにいて困った顔をしていた。僕はその人とお婆さんの話をして、、、またショックを受けた。
なんとお婆さんの症状は引っ越しをしてきてから日に日に悪くなっていたのだったらしい。そして管理会社も周りの住民も実は親身になって世話をしていたのだったらしい。ところがどうにもならなくて困っていたと言うことを聞いた。
僕はそんな事とはつゆ知らず話を聞いていたのだったのだ。


お婆さんが「話を聞いてくれるのはお宅だけ」と言ってくれたことを思いだした。周りはサジを投げて誰も相手にしてくれない結果だったのだ。
どうりで、、と言うわけではないが「なぜ、6階にいるというお婆さんの友達は助けに来ないだろう?」と不思議に思っていたのだが、、、その謎も解けたような気がした。
やがて、ほんの数日前のあのお爺さんの悲しい顔はひょっとして僕に向けられたのかもしれないとも思った。

心配になり話を聞いた僕は何だったのか?
道化か?
単に振り回されたのか?

漸くお爺さんが帰ってきたが、、、お婆さんの行動に動揺している雰囲気はなかった。
お婆さんを部屋に入れ、背広を脱いで、帽子をかけた。
僕は事の説明をして、それでも「何かあれば声をかけて」と
お爺さんに言った。
「ありがとう」と言ってくれた。
それで二人を残して部屋を出た。


人が壊れていく。
人間が、、、脳が、、、壊れていくのだ。


僕は思った。
隣人であれ、他人であれ、
いや親であれ、妻であれ、兄弟であれ、仕事仲間であれ、
そして劇団員に対して、
自分は無力で、なんてちっぽけな人間なんだと思う。
40年以上も生きてきてこのざまだ。
〜もっとしっかりとしなきゃあ〜
大いに反省をし考えさせられた日になった。


その後。
何もなかったかのように毎日が過ぎた。
お爺さんとお婆さんの部屋も静かだった。
あれ以来、人がいる気配がしない。


自分なりにどう生きるか?
背伸びをしても仕方がない。
が、もう少し逞しくなりたいと思った・・・。