無力(上)

それは4〜5日前の事だった。
夜の7時過ぎにドアベルが鳴った。
恐る恐るドアを開けると2軒隣の部屋に住むお婆さんが
立っていた。
何事かと聞くと「聞いてもらいたい音がある」
と言ってきた。以前から生活音がうるさくて悩んでいるとは言っていたが、そんなに激しい音なのか?
兎に角、部屋まで来てほしいと言うではないか。
仕方がないから部屋に上がらせてもらった。



「お邪魔します」と言って部屋に上がらせてもらった。
老夫婦で住んでいる部屋はとても奇麗に整理されていた。
そして台所にいたお爺さんがとても済まなさそうな顔をして頭を下げてきた。
お爺さんには初めて会った。
寝るところだったんだろう、ステテコを履いていた。
そしてスラッとした容姿。
白髪の髪は整えられていて、「紳士」という感じがした。


挨拶を交わしているそばから
「掃除機から子どもの声がするの!」
と、お婆さんが僕に捲し立ててきた。
どうやら聞てもらいたい音とは掃除機の音らしい。
これには呆気にとられてしまった。
「吸い口のところから子どもの泣き声がするの!」
しかし何度掃除機の音を聞いても子どもの声など聞こえない。すると「お爺さん!私がいない間になんかしたでしょう!」とお爺さんにあたる。お爺さんは「俺が何をするんだ」と言い返していた。結局、子どもの声は聞こえずに終わった。


老夫婦が引っ越して来て半年はなるだろうか?
お婆さんは生活音が気になるらしい。
上の階の人の足音。飲み水を上の階まで引き上げるボイラーの音。それとは別に隣の部屋の外人がベランダにゴミを放置すること。様々な音や他人の生活習慣が気になりノイローゼになりそうだとぼやき始めた。


お爺さんはお婆さんが心配だと言って「仕事を辞める」と言いだした。が、仕事を辞めると生活ができないと悩む。
息子さんが二人いるらしい。
頼るのはそこしかないだろうが、、、「息子たちには」と
お爺さんは濁してそれ以上は何も言わない。
僕も他人事だ。他人様の家庭に口を挟むことなどしない。
しかし悩むお爺さんに自分の父親がダブって見えた。
「お爺さん。失礼だがその歳で仕事があるのはうらやましいかもしれない。働けるウチは花だから、生活が心配なら仕事は辞めない方がいい」と本当に偉そうに言ってしまった。


「ありがとう。お宅はいつも声をかけてくれるので」と
お婆さんは言ってくれた。
「あまり神経質にならないで」と声をかけて部屋を出た。
蓄えのないない老夫婦がここにも生きている。
自分の親の事と重なると胸が痛くなる。
そして自分の将来の事を考えると、、、怖くなる。


掃除機の子どもの声。
上の階の足音。
隣の外人。
マンションに住む住人。
お爺さんの事業失敗。
なぜこのマンションに来たのか。
苦情を言っても管理会社も上の住民も隣の外人も誰も聞いてくれない。
全ての話を聞いたが、兎に角、笑い飛ばして励ましたつもりだった。
それも「話を聞いてくれるのはお宅だけ」というお婆さんを信じたからである。切なくなってきた。

ただこの場で腑に落ちなかったのはお爺さんの態度だ。
お婆さんを「申し訳ない」とでも言うのか、いや「蔑んだ目で」と言うのか、、、とても「悲しい顔」をして聞いていたのが強烈に印象に残った。
「お爺さんが事業に失敗しなかったらこんな事にはならなかったんだよ!」
黙って聞いているお爺さん。


〜このマンションに住む住民は全て人生に失敗したひとなのか?〜そう思ったが、、、これ以上言うのをやめた。


この夜の後は何事もなく、そして世の中は連休に入った。
が、この老夫婦に、、、特にお婆さんは深刻な状態だったとは全然気がつかなかったのである。
そうボケが始まっていたのだ。
後になって気がついた事だ。

あの時、お爺さんは苦笑いで「妄想だから」と言っていたが、、、ボケていたのだ。


全く気がつかなかった事に後で後悔をした。